高松寺は、戸塚駅より徒歩10分にある文禄2年(1593)に開山創建した寺院です。

髙松寺について

髙松寺は、髙松三郎頼重を開基として創建、龍甫珠公が文禄2年(1593)に開山創建したとされております。

高松三郎頼重にまつわるおはなし

高松頼重につきましては、喜岡城(旧高松城)を築城したとされます。(現在は、喜岡寺がある場所)
喜岡城は、1335年建武2年)に建武の新政で功をあげて讃岐守護となった舟木頼重(後に地名をとって高松頼重と名乗る)が築城するも、同年11月26日に足利尊氏の臣下、細川定禅らの軍勢によって落城する。しかし、頼重は生き延び、子孫の高松頼邑によって城は再建。その後香西氏に属したが、1585年天正13年)4月26日に豊臣秀吉長宗我部氏に対する四国攻めに際し、宇喜多家を総大将とする約2万3千人に攻め込まれる。対する頼邑側は長宗我部氏からの援兵を合わせてわずか200人の兵をもって戦うも敢え無く、全員が討死しました。

<旧高松城の歴史>
鎌倉幕府が滅亡して建武の新政が成ってから約2年後の建武2年(1335年)7月、旧幕府勢力が北条高時の遺児時行を擁して信濃で挙兵しました。これを中先代の乱といいます。北条軍は一時鎌倉を占拠しますが、京から向かった足利尊氏に撃破されます。しかし、鎌倉を奪回した尊氏はそのまま動こうとせず、後醍醐天皇の上洛命令を拒絶して建武政権に対して反旗をかかげます。このため、尊良親王を大将とした新田義貞の軍が尊氏追討のため京から鎌倉に向かい、尊氏軍と新田軍は箱根の竹下で衝突しました。そして尊氏はこの戦いに勝利し、京に攻め上がります。
この頃、讃岐では、細川定禅(じょうぜん)が尊氏に呼応して反宮方として鷺田荘(現在の高松市鶴尾地区)で挙兵をしています。定禅は鶴岡八幡宮の別当をしていた人物で、鎌倉幕府の残党を押さえるために讃岐に派遣されていましたが、詫間・香西氏らの讃岐武士とともに屋島近くの高松城に在った宮方の讃岐守護・高松三郎頼重(舟木頼重)を攻撃します。頼重は屋島の麓に打ち出て兵を集めようとしましたが、定禅らが機先を制して夜討ちをかけたため、高松氏一族の多くは討死し、落城しました。そして、定禅はさらに反宮方の四国勢を結集し、宇多津で兵船を整えて児島に上陸し、京に攻め上がります。
定禅に率いられた四国勢は中国勢と合流して播磨の赤松範資と共に新田軍を破って入京し、ちょうど関東から攻め上がった尊氏軍と共に三井寺、賀茂河原、糺河原などで奮戦しました。しかし、尊氏ら反宮方勢は北畠顕家の軍に大敗し、海路九州へ逃れます。定禅も讃岐へ戻り、再挙を図ります。
九州で巻き返しを図った尊氏は、建武政権に不満を持つ武士を糾合して、大軍を率いて京に海路向かいます。讃岐にいた定禅も500余りの軍船と500騎の兵を率いて再び尊氏軍と合流します。5月25日、ついに尊氏軍は摂津の和田岬に上陸し、新田義貞・楠木正成の軍と衝突しました。これが湊川の戦です。楠木正成はこの戦いに敗れ、弟正季とともに自刃しています。定禅率いる讃岐武士はこのときも尊氏軍として活躍しています。
その後、11月7日、尊氏は京・室町に幕府を開き、12月21日後醍醐天皇は吉野に逃れ、ここに南北朝時代が始まります。
高松城が落城してから250年後の天正13年(1585年)4月、この城は再び歴史の上に登場します。前年の6月から、讃岐は土佐から進出した長宗我部元親の支配下となっていました。豊臣秀吉は四国を平定するため、弟の秀長を大将に阿波、讃岐、伊予の三方面から大軍を送り込みます。讃岐へは宇喜多秀家を総大将として、蜂須賀正勝、黒田孝高、仙石秀久らの軍が屋島に上陸します。最初に攻撃の目標となったのが高松城でした。
このとき、城主の高松左馬助(頼邑)をはじめ、香西より援軍にきていた唐渡弾正
(からとだんじょう)、片山志摩(かたやましま)以下200人余の兵は防戦に努めましたが、全員城を枕に討死にしました。これにより讃岐の戦国時代は終わりを告げ、近世の幕が開きます。また、この戦いは讃岐国内での最後の戦でした。天正15年(1587年)生駒親正の讃岐入封によって、翌年、篦原(のはら)(今の高松市街地)に城が築かれ、東の高松の地名をとって高松城とし、城下町高松が誕生しました。これによりそれまでの高松は古高松といわれるようになりました。
屋島とその近くには、古墳時代に築かれた神櫛王の墓といわれる王墓、飛鳥時代に築かれた朝鮮式山城の屋島城、奈良時代に開かれた鑑真和上ゆかりの屋島寺、古代から中世への過渡期にあった源平合戦の古戦場、そして、建武の動乱と中世から近世への過渡期に戦のあった高松城と、それぞれの時代において歴史の舞台となっています。


髙松寺所蔵の文化財

雲岫和尚像 一幅(横浜市指定有形文化財)
仏涅槃図 一幅(横浜市指定有形文化財)

雲岫和尚像 一幅(うんしゅうおしょうぞう いっぷく)について

雲岫和尚像は、当寺中興六世とされる雲岫周泰の頂相(禅宗の肖像画)です。
やや右向きに法被を掛けた曲彔(きょくろく)に坐し、台上に覆をおきます。曲彔の右肩に立てかけた杖には背負い紐と払子が掛かり、衣は墨彩色で表出されています。図上に左書の著賛があります。
雲岫は夢想疎石の系統である芳林中恩(ほうりんちゅうおん)(円覚一四六世)の法嗣(ほっす)(弟子の意)で、天文二十一年(1552)に示寂しました。賛者は像主五世の法孫に当り、元禄十六年(1703)の大地震復興に尽し、元文二年(1737)に示寂しています。
本図は遺像と思われますが、図様・描法や著賛一などから見て著賛当時よりはやや古い、桃山から江戸時代の筆になるものかと推定されます。著賛遺例の少ないこの頃の作例として貴重なものです。
(横浜市教育委員会掲示より)。

仏涅槃図 一幅(ぶつねはんぐ いっぷく)について

釈尊八十歳のとき、故郷に近いクシナガラで終焉を迎えた情景を演出するこの図様は、「大涅槃像」と同「後分」によって構成されています。一般的な傾向としては、平安期の図様は画面の中で釈尊の占める部分が大きく、会衆が比較的少なくなっています。鎌倉時代以降になると周辺の情景に大きなスペースをさき、会衆‐ことに畜類が多くなって行きます。
本図は、描法・賦彩などからみて、江戸時代前半における江戸狩野系の町絵師の作と見られます。
(横浜市教育委員会掲示より)

山門について

開山龍甫珠公禅師開基髙松三郎頼重公が創建の古道場にして、六百三十有余年にわたり、澗岳山頭に赤幡を把ぐものなり。十五世黙堂中雷和尚が柦越の助力を得て、元禄十三年七月に鎌倉棟梁、渋谷七郎兵衛により、切妻作り、茅葺の四脚門を建立する。その後、大正十二年九月の関東大震災により破損の著しいのを、二十六世瑞鳳徳応和尚が有志柦越の浄財により昭和十二年三月に回収する。以来、幾度か茅葺替えをして、護持に努める。しかし、創建により三百年来の風雨により柱も傾き、また、茅葺替の方策も難くなる。徳応和尚の三十三年諱報恩事業として改築すべく寺世話人に相計り、山門改築実行委員会を設置する。浄財を広く有禄の柦信徒に得て、樹齢四百年の天然桧材にて、銅版本茅葺の鐘楼門を完工するものなり。なお、山門額は創建時のものを補修して掲げ、天上龍画は北天院桜井一渓師によって画れ、百五十貫の梵鐘は田辺春司氏の篤志によって奉納され「平成の鐘」とする。落慶式は大本山円覚寺派管長足立大進禅氏を導師として特請し厳修する。

閻魔堂について

閻魔堂です。

髙松寺

〒244-0003
神奈川県横浜市戸塚区4846